聖神社のシリブカガシ
マテバシイ属に属し古代の信太周辺の森の姿を伝えている。
ドングリは食べることができる
清少納言は、「枕草子」で「森は信太の森」と日本の森の代表にあげました。
また、熊野参拝の賑わいとともに、平安・鎌倉の都人たちは競って歌枕に信太の森を詠みました。 信太の森はどこにあったのでしょうか。 葛の葉神社の森との説と聖神社の森だという説があります。 最近の研究では、和歌に詠まれた信太の森は聖神社の森だという説が有力といわれています。 
とまれ、両方の森を含めて一帯に広がった森を指しているととらえているのではないかと考えています。


六帖
いづみなるしのだのもりの樟の木の千枝にわかれてものをこそ思え

藤原定家 拾遺集
遠のべの日かげのつよくなるままにならす信太のもりの下かげ

後鳥羽院 御集
よひよひに思いやいずるいづみなるしのだの森のこがらし

赤染衛門 新古今集
うつろはでしばししのだの森をみよかえりぞもする葛のうら風 

西行法師 山家集
秋の月しのだの森のちえよりもしげきなげきやくまになるらむ

僧正行憲 健保名所
ほととぎす今やみやこへいづみなる信太の森の明け方のこえ

藤原保孝 新古今
過ぎにけり信太の山のほととぎすたえぬ雫を袖にのこして

家隆 玉吟集
いづみなる信太の森は老いにけり千枝とはきけど数は少なき
 
後鳥羽院 御集
わが恋いはしのだの森のしのべども袖の雫にあらわれにけり 




 解説
 「葛の葉物語」は、「信太妻」ともよばれ、文学・歌舞伎・浄瑠璃・文楽・説教節・瞽女唄(ごぜうた)など、あらゆる文学・芸能ジャンルでとりあげられてきました。江戸時代、竹田出雲による「芦屋道満大内鑑」(あしやどうまんおおうちかがみ)は歌舞伎で大ヒットし、特に「葛の葉子別れの段」は有名で、今日まで多くの人々に愛好されてきました。物語は、平安時代の天文博士安倍晴明の出生と活躍がえがかれています。信太の森で生まれ、信太の森が育てた作品です。

あらすじ
昔、村上天皇(10世紀)のとき、摂津の国に安倍保名(あべのやすな)という人がすんでいました。 ある日、信太大明神に参詣し、みそぎをしようと池のほとりにたっていると、狩人に追われ傷ついた狐が逃げてきました。 保名は、狐をかくまい逃がしたやりました。追ってきた狩人たちは、保名をさんざん責め、深い傷を負わせてしまいました。
傷で苦しんでいる保名のもとへ、若い女がたずねて来ました。 女の名は、葛の葉といい、かいがいしく保名の傷の手当をしました。
やがて、保名の傷も治り、二人がともに暮らすうち、かわいい童子も誕生ししあわせな日々がすぎていきました。 6年目のある秋の日、葛の葉は、庭に咲く美しい菊に心をうばわれ、自分が狐であることをつい忘れ、うっかり 正体のしっぽをだしていました。
童子にその正体を見つけられた葛の葉は、ともに暮らすのもこれまでと、

  
恋しくばたずね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉

の一首を残して信太の森へと去っていきました。
保名と童子は、母を求めて信太の森を探し歩きました。森の奥深くまできたとき、保名がふと振り向くと、一匹 の狐が涙を流してじっと二人を見つめていました。
はっと気がついた保名は、「その姿では子どもが怖がる、もと の葛の葉なっておくれ。」 保名の声に、狐は傍らの池に自分の姿を映したかと思うとたちまち葛の葉の姿となりました。
「わたしは、この森に住む白狐です、危ない命を助けられたやさしさにひかれ、今まで、お仕えさせていただきました。 ひとたび狐にもどった以上、もはや、人間の世界にはもどれません。」と、とりすがる童子を諭しながら、形見に白い玉と箱を与え、最後の別れをおしみつつ、ふたたび狐の姿となつて森の奥へと消えていきました。
この童子こそ、やがて、成人し陰陽道の始祖・天文博士に任じられた安倍晴明(あべのせいめい)だと語られています。




創建は、諸説あるが、社伝には、「白鳳3年(674年)8月15日、天武天皇の勅願により、信太の首(おびと)が聖ノ神を祭ったのに始まるとある。
祭神聖ノ大神。聖ノ神は、日知り神、すなわち天文暦の神とされる。
安倍晴明の伝説は、この神と信太の森の狐と結びつけてできたものと推察される。
本殿は、極彩色に彩られた桃山時代の建築様式を残し、国の重文指定。
他に、国の重文指定の三神社、大阪府指定の平岡神社などある。信太の森の守護神、和泉市王子町に鎮座。古代、この地を切り拓いた渡来系氏族信太首(しのだのおびと)が聖の神を祭ったのに始まるとされています。
平安から鎌倉時代の熊野参詣のにぎわいで、上皇達の参拝や奉納が伝えられ、なかでも後白河法皇の御宸筆伝「正一位信太大明神宮」が有名です。
中世から近世にかけて、説経節や浄瑠璃で語られる「葛の葉物語」の舞台として、境内にネズミ坂、鏡池が伝承されてきました。
江戸時代のはじめ、関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は、豊臣家の財宝を使い切るため、秀頼に次々と戦国時代に荒れた寺社の再建を命じました。
現存する本殿は、こうして再建されたものです。桃山時代の建築様式を残し国の重要文化財に指定されています。 神社の鎮守の森は、古代の植生を残すシリブカガシが純林を形成しています。




 保全されるまでの鏡池 2000年5月
 多くの神社や寺院に、鏡池とよばれる池があります。宗教的な儀礼の場として、みそぎをしたり鏡を奉納しています。
聖神社の鏡池も、みそぎなどの場として宗教的な役割をは たしてきたと考えられます。
聖神社の鏡池は別名「手洗い池」とも言い伝えられており、まさにそのことを示しています。
また、由緒書によれば、白狐伝説「葛の葉物語」で安倍保名が狐を助ける場所となっています。

 ネズミ坂
「聖神社由緒書」より
安倍保名は、病気の妻の全快と俊児誕生を願って、37日間信太大明神にこもって祈願しました。
ある日、斎戒沐浴して池の堤に立っていると、水面に白狐の陰が映ったので、不思議に思って振り返ると一匹のネズミが走って来ました。漁師に追われて白狐がネズミに化けて逃げてきたのです。
しばらく隠して後に山中に逃がしてやりました。
このことから、ネズミの逃げてきた坂をネズミ坂といい、姿を映した池を鏡池といいます。・・・・ 略。 また、信太の森へ帰った白狐を尋ねて、保名と童子が、池に映った葛の葉と最後の別れを惜しむ子別れの場」がこの池端と伝承されています。

  


 本殿
聖神社の森・鏡池などとともに、ここは「葛の葉伝説」のもう一つの舞台です。 
江戸時代(18世紀半ば)、時の幕府の老中田沼意次が小身者より老中まで出世したのは、稲荷信仰のおかけであると評判になり稲荷信仰が流行しました。ちょうどその頃、大阪で竹田出雲の「芦屋道満大内鑑」(葛の葉物語)が上演され(1734年)大変な人気となりました。
こうした、二つの事情が、狐の穴がたくさんあり、中村の庄屋森田氏の屋敷神と祭られてきた稲荷神を伝説の舞台として語らせてきたと考えられます。 JR北信太駅より北西徒歩5分、西1番踏切をこえてすぐ左へ

千枝の楠と呼ばれる大樹
  創建
社伝には、和銅元年(708年)2月初午の日とあるが、延喜式神名帳(927年)には、社名がなく式外社である。
元禄9年(1696年)の「泉邦四県石高、寺社旧跡ならびに地侍伝」によれば、「中村庄屋屋敷の内、裏見葛葉あり、大藪あり、内に狐多く居住する。 千枝の楠というあり、若之御前之宮あり、狐の穴多くあり、信太明神の末社なり」 とある。
また、延享2年(1745年)「泉州記」には、「稲荷社、庄屋森田文左右衛門屋敷なり」とある。



  恋しくば尋ねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
 文化財・歌碑・句碑  姿見の井戸  芭蕉句碑  和泉式部歌碑

1. 葛の葉 松谷みよ子 日本の伝説 講談社文庫
2. 葛の葉 水上勉 日本の伝説11大阪 世界文化社
3. 童子丸 松谷みよ子 日本の昔ばなし 講談社文庫
4. くずの葉ギツネ 倉橋健一 大阪府の民話 偕成社
5. 葛の葉狐 きたやまこう 日本の狐と狸の物語 メルヘン文庫
6. やすな菊 乾武俊 大阪のむかし話 日本標準
7. 信太の森の狐 大阪のむかしばなし ナンバー出版
8. 信太の森のうらみ葛の葉 庄野・中村 日本の伝説8 角川書店
9. 落語のお稲荷さん 宇井無愁 お稲荷さん あすなろ社
10. 芦屋道満大内鑑 竹田出雲 文楽浄瑠璃 床本
11. 泉州信田白狐伝 奥村喜兵衛 古文書(宝暦7年)
12.絵本白狐伝上・下 古文書
13.うらみ葛の葉 峰尾格 和泉の伝説
14.信太社の葛葉 狐藤沢衛彦 日本の伝説和泉の巻 日本伝説叢書刊行会
15. 信太妻 荒木・山本編 説経節 平凡社
16. 葛の葉伝説を尋ねて 松本暁雨 伝説と史蹟を探る
17. 葛の葉子別れ 信太山盆踊り音頭
18. 葛の葉子別れ 杉本キクイ 新潟県高田瞽女歌
19. 狐と稲荷信仰 粂稔子 稲荷信仰の研究 中央公論社
20. 狐 鬼内仙次 大阪動物誌 牧羊社
21. きつねにょうぼう 小澤重雄 日本の民話
22. 文化を創造する力 青山恭子 季刊誌「使者」2 小学館
23. 浪曲のぞき節 悲恋信太の森 京山京枝若・口演 住田八三喜作
24. 安倍晴明 岡野玲子・夢枕獏対談 河出書房
25. しのだ妻の語り手 盛田嘉徳 中世賎民と雑芸能の研究 雄山閣
26. 安倍晴明伝 夢枕獏 中央公論社
27. 安倍晴明 藤巻一保 学研
28. 説経節を読む 水上勉 新潮社
29. 和泉国うたがたり 樋口百合子 啓文社



 信太山と人々との関係は古い時代にさかのぼります。
山すそには、日本 の弥生時代を代表する、国史跡の池上・曽根遺跡があり、信太山 にも「惣が池」遺跡とよばれる弥生 時代の生活の跡があります。 「和泉黄金塚古墳」は、卑弥呼の鏡かと話題をよんだ「景初三年」の銘入りの鏡が発見されています。
2008年、和泉黄金塚古墳は国史跡に指定されました。
「景初3年」の銘入り鏡が発掘され、邪馬台国女王卑弥呼が魏の国 からもらったものかと話題を呼んだ。 
 そのほかにも「信太千塚」とよばれる群集墳もあり、100あまりの、小さな古墳が発見されていますまた、丘陵地帯は、須恵器生産の一大拠点として6世紀から8世紀にかけて「登り窯」による生産が行われました。
鶴山台団地の志保池近くにあった「濁り池」の窯跡は、わが国最古のものといわれています。
そのため、多くの燃料を必要とし、信太山の植性や景観が大きく変わったと考えられます。





街道の面影を残す太町付近
 京都から熊野権現への参詣の道を「熊野古道」とよび、またの名を「小栗街道」とよばれてきました。 近世の説経節「小栗判官」に基づくもので、
毒杯で苦しむ小栗が照手姫の引く土車で熊野の湯の峰に向かったことからこの名が付いたと言われています。
平松王子: (淀川沿いの渡辺の津を出発して2泊目の宿泊地) 「次いで平松王子、この王子においてことに乱舞の沙汰あり、
これより御馬を 停め歩いて平松新造御所に入りおはします。ともの者も各々宿所に入る。 その新造御所は、方三間の粗末な建物である。 しかし、板敷きではない。その夜は風が冷たく、月が明るかった。」
*平松王子跡・・・・幸3丁目、空池公園の北側、山手郵便局の西あたりにあったと推定され、現在空池公園入口の四つ辻に記念碑がたてられている。

熊野御幸の回数
第1位 後白河上皇・・・・34回  
法皇・上皇たちは熊野へたびたび御幸しました。
最初の御幸:宇多天皇(907年)
最後の御幸:亀山上皇(1281年)    
374年間に9人の法皇・上皇・・・・・総回数98回
No.1 後白河上皇・・・34回
No.2 後鳥羽上皇・・・28回
No.3 鳥羽上皇・・・・・21回
熊野御幸の人数・食料
白河上皇の場合
お供する人数:814人
一日の食料:16石2斗8升  (1日一人米2升)
伝馬:190頭                         
資料:田中重夫「熊野街道と九十九王子の研究」より  

 後鳥羽院歌碑  幸町第二児童公園
平松はまだ雲ふかく立ちにけり明け行く鐘はなにわわたりか